2012年12月1日土曜日

No.89  教理随想(40)  元のやしき


 今回は「宿し込みのいんねんある元のやしき」(『教典』二十六頁)、「ぢば」について考えてみよう。

 さて「元のやしき」とは、大和国山辺郡庄屋敷村の中山氏という屋敷で、この屋敷には人間創造のときの道具衆の役割をはたした魂の理のある方々が住まいし、親神はこの屋敷の因縁によって「元のやしき」に天降られたのであるが、この「元のやしき」と「ぢば」とは厳密に言うと同じではない。

 二代真柱様は『続ひとことはなし その二』のなかで、「ぢば」を一、天理王命の鎮まります地点、二、元なるぢばのある屋敷、三、教規による教会本部、四、屋敷を囲む一帯の地域の四つに分けられ、二の字義において、「元なるやしき」と「ぢば」が同じものとみなされる用例を示されているが、「教理上、かんろうだいによりて表示されているぢばは、中山氏という屋敷中の一地点なので、屋敷との混同は許されない」(百六十八頁)と述べられ、両者を明確に区別されている。

 「ぢば」とは教理上「天理王命の神名を授けられたところ」、親神様のお鎮まり下さる地点、標識として「かんろだい」の据えられてある所ということになる。
 
このことを前提にして「ぢば」にまつわる問題について次に考えてみよう。

 われわれは「ぢば」について、人類の生まれ故郷、創造された地点とか何気なく言うが、このような言い方は厳密に言うと正しくない。

 なぜなら「ぢば」とは、九億九万九千九百九十九人の子数が宿しこまれた場所、いざなみのみこと様が、三年三月とどまられた場所であり、産みおろされた場所ではないからである。

 ところで産みおろしの期間と場所の内訳については『神の古記』明治十六年本によると、奈良初瀬七里四方七日間、残る大和の国中四日間、山城、伊賀、河内三ヶ国十九日間、残る日本国中四十五日間、合計七十五日間かかって、子数のすべてを産みおろされたと明示されているが、では一体七十五日かかって、別々の場所に産みおろされたことはいかなる意味をもつのであろうか。
 
まず七十五日については、『天理教教典研究』(平野知一著)によると、七十五日は「をびや許し」の「七十五日の身のけがれも無し」、またつとめ人衆が七十五人であること、七十五年については「七十五年経てば、日本国中あらあら澄ます、親神の教えが日本国中にひろめられる時旬である等などの悟りが示されているが、七十五日を実数ではなく、象徴とすると、一律的な解釈はできないのではないかと思われる。

 問題となるのは、産みおろしの場所とその順序についてである。

 まず場所について言うと、大和、山城、伊賀、河内等、具体的に昔の国名が示されているが、よく考えてみると、この産みおろしの時点では、まだどろ海の状態で、海山、天地、世界の区別もないので、具体的な地名で場所を指定できないのではないか、また日本以外の外国についてはどのように考えればいいのか、という素朴な疑問が生じてくる。

 これについては、どろ海中の産みおろしの位置が、海山天地の区別ができたときに、具体的な日本の場所になった、とか、また外国については、子数はあくまで日本に産みおろされ、それから世界各地へ食を求めて散らばっていった、との説明も成り立つかもしれない。

 しかしこのように理解するとき、人類は日本において誕生し、人類の先祖は日本人であるとの独善的な民族主義の思想につながる心配があり、世界一列兄弟の教えと矛盾するのではないか。

 ではどのように考えればよいのか。
 私見によると、なるほど『神の古記』には具体的な日本の地名によって場所が明示されているが、それはあくまでも当時の人々に身近に感じさせるために、日本の地名を教祖は使用されたのであって、実際には全世界的なスケールで産みおろしがなされ、最後の四十五日間は残る日本国中ではなく、残る世界中と解することができるのではないかと思われる。

 当時の人々にとって、外国、世界と言ってもピンとこないので、教祖はあえて日本の地名に置き換えられて教えられた、このように理解するとき、世界一列兄弟の教えと矛盾なくつながるのではないかと思われる。

 それから産みおろしの場所と「うちわけ場所」との関連についても問題となり、山沢為次氏は「産みおろしの場所は、うちわけの場所ではないかとも考えられます」(『第十三回教義講習会教典稿案講習録』(百三十一頁)と述べているが、「うちわけ場所」については、  

おふでさきに
このはなしなんの事やとをもている
神のうちわけばしよせきこむ
    (二、16)
と一ヶ所あるだけで、確かな資料、典拠が示されない限り、なんとも説明できないのではないか。

 『おふでさき注釈』には、
「うちわけばしよとは、打ち分け場所で、将来は内、中、外に各々三十一ヶ所宛、都合九十三ヶ所出来ると仰せられた。如何に業病の者でも、その打ち分け場所を回っているうちに、病気を救けて頂くのであるが、そのうち一ヶ所は非常に辺鄙な所にある。しかしこれを略するようでは救からない。又たとい途中で救かっても、いざりは車を、盲者はつえを捨てないで、結構に救けて頂いた事を人々に知らせて、最後にそれをおぢばに納めるので、もし途中でそれを捨てたならば、一旦救けて頂いても、又元通りになると仰せられた」と詳しい説明がなされている。

 しかしこの説明では救済の過程が何か巡礼のような、単なるご利益信心と同じように思われて、教祖が直々に教えられたとはとても思えない。

 また打ち分け場所が、現在の特定の教会(『逸話篇』102「私が見舞いに」に「ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで」とあり、高安大教会では、打ち分け場所とは、教会の意味との解釈がある)であり、それが正しいとするなら、今の系統組織は根底より覆されるのではないだろうか。
 
このように考えると、産みおろしの場所、うちわけ場所については、一律的な説明は難しく、今後の研究に待つよりほかないであろう。

 次に産みおろしの順序についてみてみよう。

産みおろしは同時ではなく、七十五日かかって順次なされているが、それはなぜか。先に産みおろされたものと後に産みおろされたものとは何によって区別されたのか。同時に産み宿しこまれた子数には、宿し込みの時点ですでに区別があったのか、という問題がでてくるが、これも難しい問題である。

このことは「にほん」と「から」、「にほん」と日本の問題にも関連するもので、悟りの域を出ず、一律的な解釈ができないと思われるが、ただ次のことははっきりと言えるのではないか。

大和、山城、伊賀等と順番に産みおろされているが、異なった場所に産みおろされたものの間には、優劣のような価値の差は一切ないということ、つまり大和、「ぢば」の近くに最初に産みおろされたものは、より親神に魂が近い、長男長女のような存在である、ということは決して言えないということである。
 
ではその後何代もの生まれかわりを経た現在ではどうであろうか。

 これも難しいが、現在「ぢば」の近くに住む日本人と外国人の間にも、そのような価値の差はなく、あるのはそれぞれの役割の違いであって、決して心の成人の差ではないと思われる。

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